2026年2月24日火曜日

2月15日の読書会

全員参加の読書会、人数が増えて1回ごとの進度が少し早くなりました。前半を淀みなく進めないと、後半部分が駆け足になってしまいます。しわ寄せがいくのはほぼほぼ室生さんなので(ごめんなさい)、抜かりは多々あっても精一杯準備してバトンを清々しく次の人に渡すぞと心に誓うわたしです。とはいうものの、なぜかどーでもいい些末な疑問でつまずいて、一人もたもたしてる感じ。家でも平らなところでつまずくし、「老化」は肉体のみならず学習面でも進行中なのか。

【トンボとハンモックの共通点】

一个人蜻蜓一般轻盈立于船头」(p.361)

躺在吊床里的人会感到一种奇异的闲适和轻盈」(p.362)

このふたつの「轻盈」のニュアンスをどう日本語に移すかで、訳語の吟味大会が始まりました。

「北辞郎」によると「轻盈 qīng yíng : ①しなやかである。軽快である。すっと。(女性が)なよやかである。➁のんびりしている。楽しげである」とあります。同じ「轻盈」でも文脈が違えば、選ぶ言葉もまったく違ってきます。トンボもハンモックも「なよやか」だったら味わいがシュールすぎる。魔翻訳なら楽しい、でもここは辞書に載っている言葉以外のピンとくる言い方を探さなくてはなりません。「北辞郎」を踏まえると、トンボの「轻盈」は①、ハンモックの「轻盈」は➁のカテゴリーを表わすのだと理解、そのうえであれこれ言葉を当てはめていくうちに、「轻盈」は見た目の「軽さ」だけでなく、そこから生まれる「解放感」もカバーする、重力(ストレス)離脱のいい言葉だなぁと感じました。トンボとハンモックの共通点が「轻盈」だなんて大発見です。

【愛想尽かしか、リストラか】

因为住着一对北方来的老夫妻,又因为最近生意不景气,雇的那两个帮工也辞退了,我只得自己下厨做饭」(p.362)

ここの「辞退」、わたしはてっきりバイトくんが自分から辞めたのだと思っていました。歩合制とかで、不景気で収入が減り「こんな安月給じゃやってらんねぇ!」と愛想を尽かしたのだと。でも、ここは「雇い主(つまり『我』)が彼らをクビにした」のだと教えてもらいました。日本語の「辞退」とは意味の方向が逆です。

辞退」には雇う側が「断る・退ける・辞めさせる」の語感が強く、もしバイトくんが稼げなくて自分から辞めたのだといいたいなら、「帮工也走了」「帮工也不干了」「帮工也辞职了」あたりを使うのが自然だとチャッピー先生もジェミ兄も口を揃えていってました。あとは「告辞」とか。「辞退」ってリストラ感の匂いをぷんぷん放つ単語なのだと知りました。「我」はバイトくんに見捨てられたわけじゃなかったのか……。人を減らしてコストカットした分、自分の手を動かすよりないという経営者の苦渋の決断だったんですね。

【右にジェミ兄、左にチャッピー先生の御前会議】

忽然,我一,准备揭锅盖的那只手停在了半空中」(p.363)。ここの「」を1声で読むか4声で読むかでニュアンスが変わるね、という意見が新鮮でした。

チャッピー先生は、「断絶・瞬間停止→zhēng」、「呆然・間が入る→zhèng」。ジェミ兄は「zhēng:ぼうっとして間が伸びる状態描写」、「zhèng:衝撃・ぎょっとしてフリーズ」って説明してくれました。待って待ってチャッピー先生とジェミ兄とで説明が食い違っています。お互い逆のこといってます。どっちなんだろう。ふたりに論戦してもらったら、最終的にチャッピー先生が折れた形になりました。わたしはまるで御前会議で臣下の進言(チャッピー先生とジェミ兄)のどちらを重用するか、白熱する応酬に耳を傾ける皇帝の気分。いちばん問題なのは、1声で読もうが4声で読もうがそのニュアンスに気づけない自分にありそうな……、暗君か。

【作者の打ちミスってことにしたい】

床单徒然瘦了下来」(p.363)

有的徒然从云层里钻出来」(p.364)

このふたつの「徒然」のニュアンスをどう日本語に移すかで、またまた訳語の吟味大会が始まりました。「北辞郎」には「徒然 tú rán : ①むだに。いたずらに。➁ただ。ひたすら」とあるものの、①②のどちらの意味ともニュアンスがズレていて、例によってそのまま使えなさそう。そもそもなんでここ、わざわざ「徒然」なんて言葉なんでしょうか? 「『陡然』のまちがいじゃないの? ここは『陡然』でよくない?」「作者の打ちミスってことにしようよ」、などという大胆な意見もでて、もちろん大賛成のわたしです。「陡然」のほうが「徒然」より文章が生き生きするように感じますもん。

とはいいつつも「徒然」の気分を拾えそうな言葉を、チャッピー先生とジェミ兄に集めてもらいました(自分では何も思い浮かばなかった)。

「シーツが痩せる」ほうは、「いつのまにか/知らぬ間に/むなしく/なすすべもなく/ただ……」。「雲から出てくる」ほうは、「ふいに/ぽつんと/何の前触れもなく/所在なげに/ふらりと/あてもなく」。言葉をそれぞれ当てはめてみると、なるほどこれが「徒然」の雰囲気なのか。日本語の「つれづれ」とはまったく趣が違うようです。中国語の「徒然」もひとくくりにできない単語の引き出しに入れときます。“陡然のほうがよくないか”って、むだに揺れた点については、魔翻訳の入口に片足を突っ込んでるから引き返してこいってチャッピー先生にたしなめられました。陡然のほうが派手っぽくていいけれど、作者はあえて「徒然」を選んでいるのだと……そりゃまぁそうですね。

【キャラ立ち単語】

这些神秘的与信仰有关的仪式也是一种场所精神吧,对外地人尤其是城里人也应该是充满吸引力的」(p.365)

この「场所精神」、日本語にすればそのまんま「場所の精神」、何も考えずにボケーっと読み飛ばしていましたが、 もともとの出どころはラテン語 genius loci(ゲニウス・ロキ) の中国語訳なんだそうです。「ラテン語のゲニウス (守護霊) とロキ (場所・土地)を合わせた言葉」(ブリタニカ国際大百科事典)とあります。どの土地(場所)にもそれぞれ特有の霊があり、その霊の力に逆らわず、その土地の風土、固有の歴史などを十分に尊重することがすぐれた景観を生むという思想まで含むそうです。平たくいえば「その土地ならではの空気」といったところ? ゲニウス・ロキ、人の名前みたい。インテリっぽいちょっとかっこいい響きを感じます。蛇の姿で描かれることも多いともあり、これはキャラ立ちしそう。縁の下の蛇神さま的な……ちょっと違うか。


電子辞書が壊れて数か月経ちます。これまでCanonのwordtank Z900を何年も使ってきて、生産もサポートサービスもとっくに終了、代替のバッテリーも手に入らなくなって久しく、電源さしっぱでここ数年だましだまし使っていました。そんなある日突然、ぱたりと起動しなくなりました。Z900は画面もキーボードも小さく、画数の多い文字はつぶれて判読できず、反応も遅かったけど、大事な相棒でした。若人らはスマホの辞書を使うのが国境を越えて当たり前のようなので、わたしも数年前から無理してあれこれアプリを試していますが、小回りが利かずどれも使いずらいです。近い将来、CASIOのEX-word片手に小躍りする日が来そうな予感。CASIOさん、どうか電子辞書を販売し続けてください、お願いです。[祥]

2026年2月7日土曜日

1月24日の読書会

昨年はナカさんが加わって読書会に活気が生まれ、そして前回からゴンさんも加わって会にさらなる厚みが生まれました。視点が増えると新鮮な気づきも増え、今回はいつにも増して中身の詰まった読書会となり、時間が足りないくらいでした。

【催促に気づかなかった】

舅舅忽然抬起头看了我一眼,这一眼让我觉得脊背发凉」(p.355)。ここの「」のニュアンスをどう日本語に移していいか、うろうろ迷っていたら「なくても文章成立しますよね?」と仲間の助け船、そっか、なくてもいいのにあるってことは、これまでの経験則によれば「何かしら強調したがってる」ことが多いよなと思い至りました。その後、ジェミ兄に聞いてみたところ、ここの「」の役割は「非常に強烈であること、ダイレクトであること」を表わす以外に、「『』を使うことで、話し手の主観的な驚きや恐怖がより際立つ」と。「」が話し手の「主観」を強く反映していたとは。「我」の“ぞくっと感”は主観だけれど、読者にも同じ寒気を“ダイレクトに食らえ、共有しろっ”て催促していたんですね。

遅ればせながら、いま共有しました。叔父さんのこういうところ底が知れなくて気味悪いです。

【なんで「嫁」?】

読書会では特に問題にはならなかったのですが、じつは「嫁接」という単語にひそかに引っかかってました。“なんで「」?”と。なんというか、社会感丸出しの言葉が植物の世界でも使われているんだなぁと感じたわけです。まぁ、わかります、家父長制社会では女性が自分の実家を離れ、夫の「家」の基盤の上で生活するその姿は、よそからもってきた穂木が台木に入って血筋をつなぐ接ぎ木のメカニズムとよく似てますもんね。となれば、今後もしも社会構造がひっくり返って母系社会が支配的な世の中になったら、「嫁接」は死語になって「婿接」なんて言葉が生まれたりするのかな……。あぁそれでも本来、男性側であるはずの「婿」にも「女」偏がくっついています。感覚的には「男」偏でもよさそうなのに。この問題、奥が深そう……。

【ジェミ兄に戒められる】

双生苹果的果实是成对的」(p.357)の「」の読みについて、「jiéじゃなくてjiēですよ」って仲間に直してもらいました。そういえば「结巴」とか「结实」の「」って第一声だったっけ。

……あれ? 「」に二通りの読み方があるってことは、「结果」という単語も文脈によって「jié guǒ」と「jiē guǒ」とで読み分けるってこと? だって「果」が「結」するわけだから……。

「北辞郎」を見てみたら……あ、あった。「jiē guǒ」で「実を結ぶ、果実がなる」、「jié guǒ」で「結果」「結局、挙句の果て」って。おまけに「殺す、とどめを刺す」などという物騒な意味まで載ってます。

「実を結ぶ」ことを、日本語では「けつじつ(結実)」とはいっても「けっか(結果)」とはいいません。ネイティブに「努力が実を結んだよ」というつもりで「努力结实了」なんて中国語で自慢した日にゃ、「努力がっちり?」 「努力がムキムキ?」と逆に突っ込まれるってことか(危なかったー)。

ジェミ兄とチャッピー先生に尋ねたところ、「结 jiē」には、植物が実をつける以外に、実体あるものが「物理的」に変化して「固まる」「詰まる」、そんな共通したイメージがあるようです。確かに「结舌」「结疤」「结茧」、みんな詰まって固まってます。いっぽう「结 jié」には、 バラバラなものを約束やルールあるいは論理、つまりは「抽象的」なものでひとまとめにする、そんなイメージがあるのだと。「结婚」「结盟」「结合」とか、確かになんか繋がってますもんね。

だから、努力が「実を結ぶ」のは「努力有了jié)果」で、ばらばらだった果(ここでは努力)がまとまる感じ。これを「どうしても物理的に『努力の実』を実らせたい」なら(比喩ではあるけれど)「努力jiē」にしないと伝わらないと教わりました。「」の助けがないと「jiē」は「果:jié guǒ」に引っ張られて負けてしまうようです。「结果:jiē guǒ」は辞書には載っているものの、単体では使えないっぽい。

うーんこんがらがる……。この「こんがらがり」も「结 jiē」のイメージだよとジェミ兄に突っ込まれました……。だったらこの「こんがらがり」をほどく结实结果(「jiē guǒ」と「jié guǒ」)を入れ込んだ短いフレーズを作ってみてとお願いしたところ……

根基jiē)实,努力jiē,必有jié)果

土台が堅実であれば、努力は実を結び、必ず結果がついてくる。

Σ(゚д゚;) ひぃぃ教訓で返された……。しかも今度は「」のかわりに「」だ。

こんな重箱の隅突っつくようなことをちくちく考えるのやめて、堅実に努力します。


今回、その子さんの差し入れ、銀杏・干し柿が大ウケでした。

なんとどちらも自家製で、ことに銀杏はやり手の行商人(孫)に「売りつけられた」とその子さん苦笑い。でも、こんなかわいいパッケージで行商された日には、わたしも大量購入してしまうと思います。絵心あれば、絵手紙にしたいクオリティ。

銀杏はさっそくホットサンド用のフライパンで炒って、茶わん蒸しに入れました。甘くてほっくほくでした。本当はレンゲでしゃくってどんぶり一杯一気食いしたいくらい大好きな銀杏ですが、「(食べすぎは)毒だからね」と室生さんに釘を刺されました。それを聞いたゴンさん「毒があるの?」って驚いていました。はい、あるんです、調べたら適量は1度に 5〜10粒らしいです、たったの。どおりで銀杏の缶詰があんなに小さいわけです。あれは「これくらいにしとけ」というメッセージだったのか。銀杏の巨大缶、あればいいのにと思っていましたが、あのちっぽけサイズは消費者への安全配慮なのかもしれない。干し柿のほうもしみじみした深い甘さに癒しを感じました。じつにおいしかったです。干し芋のとき同様“身体にいいもの食べてる”感で満たされました。

その子さん、差し入れだけでなく今回は次に取り上げる作品のコピーも配布してくれました。作品は、马伯庸《长安的荔枝》。安定のその子セレクトなので、作品に外れがあるわけもなく、読む前からワクワクではちきれました。読書会終了直後からダッシュでがつがつ読みふけりました。やや長めの中編小説ですが、ストーリーにリズムがあって先へ先へと後半へ行くほどに加速度がつく作品です。主人公 李善德の名前を見て“どっかで見たなぁ”と思ったら、いま公開中の映画「長安のライチ」の原作でした。

内容は唐の都・長安で、下級官吏・李善徳が上司に無茶ぶりされた「ほぼほぼ絶望的なミッション」を、得意な「数学」を武器にクリアするお話。そのミッションというのが、(楊貴妃の誕生日に合わせて)嶺南から長安まで腐りやすいライチを新鮮なまま運んでこい、というもの。ナンデスカそれ、唐代のブラック官僚社会がコミカルに描かれていると思いました。史実を下敷きにしているので、杜甫や安禄山などあちこちで聞いたことのある名前が出てきます。唐代の官職、地名、歴史等々、知らないことだらけですが、その点はShenshenが詳しそうなので不安なしです。あわせて映画も観ておけばイメージしやすく、これでもう予習はすんだも同然!(?)。さすがその子さん、つかみはばっちり。心ははや次回作へ向かうわたしです。

いやいや〈落日珊瑚〉はこれからが佳境だった![祥]

2025年12月26日金曜日

12月21日の読書会

どうしようどうしよう、もう1年終わっちゃう。そんな焦りを押しとどめてくれるいつもの読書会。時間ギリギリに着いたと思ったら、すでに全員揃っていて、初参加のゴンさんが笑顔で迎えてくれました。しまった、面目ない。ゆるゆるよろしくお願いします。

【どんどん魔改造されていく阿梁の水塘边】
阿梁の水塘边がとんでもないことになっています。
最初はただの水塘だったはずなのに、こうなるともはや水塘边全体が一つの生き物となって、夜中に増殖・進化しているのではという気すらします。どんな情景なのか、物語性たっぷりのジェミ画伯に描いてもらいました。 ↓これこれ。

あれ、わたしの想像よりはおどろおどろしくない(前回登場していた中年夫婦もいないや)。そうか、本文に「童話世界」とあるからか。わりとかわいらしい世界観になっています。ちがうなー、これじゃないな。
阿梁がものした盆栽のなかにはこのような描写があります。「有一枝簕杜鹃的老枝上没有一片叶子,却轰然开出了一树粉色的杜鹃花,像一个头上插满鲜花的老人,散发着一种阴沉腐朽的烂漫」(p.351)、どんな感じでしょうね。
今度はチャッピー画伯に描いてもらいました。 ↓これこれ。

へー、わりとまともかも。この“ちょっと怖い感”漂う画風いいですね。 仏頭果の前科(?)あるチャッピー画伯なので(8/31の読書会参照)、老女の頭いっぱいに花を咲かせるかも……と期待していたので、ちょっと肩すかし。
さて、この一文でささやかな問題が発生しました。「簕杜鹃」(ブーゲンビリア)と「杜鹃花」(ツツジ)は違う花なのに、「簕杜鹃的老枝上」に「杜鹃花」を咲かせることなんてできるのか、という疑問です。おそらく接ぎ木・挿し木をしたんだろうって、その場では納得しました。
ところが、その後チャッピー先生に尋ねてみると「簕杜鹃杜鹃花は植物学的には別」だと。ならば、なぜわざわざ「杜鹃花」と書いてあるのかと問うと、「(もしここで一貫して杜鹃花と書くと)植物説明的になりすぎる、色彩のイメージが限定される。(杜鹃花といい換えることで)読者にツツジ的な、もこもこした花の塊、樹全体がまるごと花に覆われる視覚を瞬時に喚起できます」とのこと。“えー、そうなの、ただ紛らわしいだけでは……”と思うのはわたしだけかな。「これは誤用ではなく、意図的な視覚操作で、この文では 同一の植物を別名・比喩で呼んでいる」って、チャッピー先生畳みかけてきます。強気です。
申しわけなくも、いまいちチャッピー先生が信用できなくて、ジェミ兄ちゃんにも聞いてみたところ、「(簕杜鹃杜鹃花は)植物としては別物であり、接ぎ木もできません。文脈としては、『ブーゲンビリアの木に、その花(ブーゲンビリアの花)が咲いている様子』を、装飾的に描いていると捉えるのが自然です」って。装飾的ねぇ、自然ねぇ……。“まぁ、おふたりの意見が揃っているなら……そうなのね……”と、渋々受け入れたわたしです。もしかしたら、こういうところもブンガクなのかもしれない。
ちなみに、コピ先生(Copilot)はこの点について、「園芸的な演出(例えば、簕杜鹃の鉢に杜鹃花の枝を挿して咲かせたような寄せ植え)を表している可能性があります」と、あらたなびっくり解釈を披露してくれました。でも、こんなインチキは興ざめなので即時却下。コピ先生、聞いておいて、ごめんなさい。
【支払う側か受け取る側か】
在你这里住一晚多少钱?」(p.352)、ここの「」をと読んで、仲間から「ではなく、děiですよ」と指摘されました。ここの「」は「かかる」「必要とする」という意味の動詞で、「ここに一晩泊まるといくらかかるのか」という「支払う側の視点」になっているのだと気づきました。「これは料金の話=支払う側の質問」だからděiが正しい。わたしは、阿梁の立場つまり「受け取る側の視点」で読んでいたので(得る) と読んでしまった。
ならばと読ませて、「一晩泊まるといくら得られるか」という文章にするにはどうしたらいいのか。「在你这里住一晚,能得到多少钱」とか「在你这里住一晚,能得多少钱?」といった文章に変えればいいのだと、チャッピー先生が教えてくれました。「得(děi)多少钱 : いくらかかる」「得到多少钱 : いくら得る」はお決まりの形ですもんね。
【芸術家のいた好几个月は何か月くらいか】
有个艺术家就来过我们镇上,一住住了好几个月」(p.352)の「好几个月」は何か月くらいなのかが気になっていました。好几 は「多いけど、まだ“几”の感覚が残っている数」だから10か月は滞在しなかったわけで、一般的な感覚だと3〜6か月くらいかな。でも7〜8か月もあり得る。旅の途中でそんな悠長な道草してる人って、そうそういないですね。やっぱり芸術家は違うなぁ。 「+動詞+動詞+」の形は、行為が始まったら思いのほか長く続いたという語り口の強調だそう。「おっと、最初はそんなつもりじゃなかったのに」という含みがあるそうです。 
チャッピー先生、たくさん例を挙げてくれました。
住住十年……住み始めたら、そのまま10年も住んだ。 
等等半天……待ち始めたら、半日も待つことになった。 
看看一整晚……見始めたら、一晩中見てしまった。 
听听好几遍……聞き出したら、何度も聞いた。 
做做三天……作業に取りかかったら、3日もかかった。 
修修好几个小时……修理を始めたら、何時間もかかった。 
哭哭半宿……泣き出したら、夜中ずっと泣いた。 
病病半年……病気になったら、半年も治らなかった。 
これは使い勝手よさそうな形です。
【敷地の雑草を有効活用できるか……】
每个地方酿出的酒都有自己的灵魂,不同的水土养育出不同的酒香,清香型,浓香型,酱香型,只有甜烧村能酿出甜烧酒。酒可算是一个地方最古老最传统的文化了」(pp.353-354)。「我」は、甜烧村に伝わる古い方法で酒を造ろうとします。作り方はまず、
①米粉にさまざまな草の葉を混ぜ、そこに葛の汁を加えて発酵させる。
② それを鶏卵ほどの大きさに丸め、草むらの涼しい日陰にしばらく置いて「草曲」(麹)を作る。
③この「草曲」と糯米を使って、「米酒」を醸す。
なんか簡単そうに書いてあるので、「米酒」を真似して作ってみたくなります。
仕込んだ「米酒」を池の底に埋めて長期熟成(娘が生まれて嫁ぐ直前まで)したものが「女儿酒」で、時間以外の追加物なしの完成品。味は格別でこれで客をもてなすそうです。ならば晩婚の娘ほど客に喜ばれる酒になるってことかな。結婚をやたらせっつく現代中国の親なら、「女儿酒」の味が“よくなりすぎる”と、気が気じゃないかもしれないですね。
寝かせていないただの「米酒」は未完成品で、ここに果物・花・草・さらには鳥獣魚介までなんでもかんでも「酒壺に封じこめる」ことで完成した酒になるともあります。飼い猫の阿橘が誤って酒壺に落ちてしまい、「猫酒になりたいのか」と叱られてました。
浸け込む材料の組み合わせを大人の遊びに見立てて、観光客に体験させるっていかにも楽しそう。個人の民宿でこのような「酒造り」を気軽に体験できたら魅力倍増です。日本だと蔵元が利き酒をさせてくれたりするツアーをたまに見かけますが、個人だと法律上いろいろ制約があり、免許もなく「さぁやってみよう」とはいかないみたいです。
本文に出てくる「草曲」は、その土地の微生物環境そのものを取り込んだ麹なので市販の麹とは別物、たとえ同じ草を集めても同じ菌はつかないらしい。だから、よそでは再現できない「每个地方酿出的酒都有自己的灵魂」の味になるもののようです。真似したくても無理ならば、わが家の雑草でわが家にしかない「草曲」を作れないかなどとも想像してみましたが、そもそも日本では法律的に個人の酒造りは禁止なのでした。

読書会のあとは、ゴンさんの歓迎会も兼ねて忘年会しました。想像の「米酒」より目の前の啤酒です。読書会の生き字引 室生さん以外は初めての忘年会。ナカさんにはあれこれご面倒をおかけしました。中華のお店の予約から、料理の取り分け会計まで、何から何までありがとうございます。酔えば酔うほどに中国語がよどみなく口をついて出るShenshenに圧倒されました。無口辛口だとばかり思ってましたよ、すみません。東京駅豆知識など彼の导游話でおおいに盛り上がったのですが、いまとなっては「セザンヌはサイシャン」で、「ゴッホのファンは4声だよ、2声じゃないよ」しか覚えてない。り・こうしょう云々の話に至ってはアホがばれて困りました。帰宅して、セザンヌは塞尚Sài Shàngで、ゴッホは梵高Fàn Gāoなのかとちゃんと復習しました。ゴッホはともかく、セザンヌがサイシャンって、なんで? 共通する音がひとつもない、似てなさ過ぎてこれはこれで忘れないかも。そうだ、それにゴンさんの話をもっと聞きたかった、太極拳の話も聞きたかった、お勧めドラマの話も聞きたかった、時間があっという間すぎた。楽しかったー、おいしかったー。
そんなこんなで、来年も読書会は続きます。そろそろ次の作品も決めないと……、その子さんがひそかに「歴史っぽいもの」を意識して物色しているもよう。今回、この文学的で難しい〈落日珊瑚〉を最後まで読みきれたら、個人的には“次の作品、どんとこい”な気分になると思います。次回作はいっそSFでもどうですか?[祥]

2025年12月8日月曜日

11月30日の読書会


全員参加の賑やかな読書会、充実したおやつを前に至福の時を過ごしました。参加希望の方が1名いらっしゃる予定だったのですが、あいにくご家族がインフルエンザとのことで参加見合わせとなりました、残念。いま流行り始めてますもんね、無理は禁物。次回、お会いできるのを楽しみにしています。

【見た目かわいいけれど毒もある】

阿梁の「ガジュマルの家」、例の根っこテーブルを貫く宝剣状のガジュマルは、あっという間に屋根を突き抜け、太陽の光にあたるや、一気にこんもりした緑のキノコ状に変貌しさらに成長しています。なんと気根まで伸ばし、垂れた気根が地面に達して、再び大地に戻ってくるという無限ループを形成してしまいました。なんという生命力。

阿梁はその垂れさがった気根に拾ってきたお猿のぬいぐるみをぶら下げ、そのようすを「猴子捞月」(p.345)と名づけます。阿梁、楽しそうだなぁ。調べたところ、これは中国の有名な寓話にちなんでいました。猿たちが水辺で遊んでいると、水面に映った月を見つけ「月が落ちたー!」と大騒ぎ(かわいい)。水の中に手を入れて月を取ろうとするけれど、手が届かない。猿たちは木の枝に一匹また一匹と連なってぶら下がり、長い一本の鎖のようになって水面の月に手を伸ばします。案の定、あと少しのところで枝が折れ、猿たちはみんな水の中にどぶんと落ちてしまいましたとさ、というお話。「猴子捞月:猿が月をすくう」、もともとは『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』という仏教関連の書物が原典だそうで、つまり不可能なことを無理にやろうとして失敗することへの教訓がこめられていたわけです。お猿のぶら下がった光景はいかにもかわいらしいけれど、皮肉を含んだ光景だったのかー。

【どんどん腕を上げていく画伯たち】

今回も阿梁があらたに作った小屋が登場します。次々と本当によく考えつくものです。そこでまたチャッピー先生とジェミ兄ちゃんの絵をお願いしてみました。

まずは、池の周りに作った鳥かご状のつる性植物の「花の家」と、レンガ作りの「薬草小屋」。





ジェミ画伯↓

←チャッピー画伯


チャッピー画伯のほうは、ゴッホのような人物が不自然に密接して立ち並ぶふたつの構造物を眺め、物思いにふけっているようす。絵に雰囲気を感じますね。





←ジェミ画伯

ジェミ画伯のほうは、脱サラして田舎に移り住んだと思しき中年夫婦が描かれており、乙女チックな構造物とのギャップがいい味です。これはこれで別の物語があふれ出てます。池というより水たまりっぽいのがちょっと残念。


小屋の構造については、両者ともに似てるといえば、まぁ似てますね。どちらも、“うーん、これ……?”的な微妙な違和感込みで、いろいろと楽しめる仕上がりです。誰か映画化してくれないかなぁ。

自分が観光客だったら阿梁の作品(小屋)を実際に見てみたい、そう思う人はわたしだけではありません。ストーリーは展開して、阿梁の新作はなんとこのあと「ガジュマルの家」ともども大評判となり、当人の「仙人っぽさ」もあいまって彼は伝説の人物となっていきます。

その評判に気をよくした阿梁がさらに作ったのが、池の上の「日よけ棚」と「木の洞小屋」。その想像図がこちら。






←チャッピー画伯



←ジェミ画伯


「木の洞小屋」の2階だて構造の階段が、内側についているのか、外側についているのかで、ふたりの画伯の意見が分かれていますね。チャッピー先生のほうは、木の幹に階段らしきものを彫り込んでいます。ジェミ画伯はなんと木の内側! よほど太い木でないとこんな細工は難しいのでは。でも夢があります。どちらも“外側に縄梯子っぽいもの”という、わたしの安直な想像をはるかに超えています。

「日よけ棚」のほうは、「他又造出了两座神奇的屋子,一座建在水塘上,他在水塘里种上王莲,又在王莲巨大的叶子上用香蕉叶和散尾葵搭起一座凉棚,周围点缀着大大小小的睡莲」(p.346)、池にオオオニバスを植え、その巨大な葉っぱの上に日よけ棚を組んだと本文にはあります。そんなこと本当にできるのかと思いましたが、チャッピー画伯はちゃんと葉っぱの上に建ってます。こんな大きな葉なら人が乗っても大丈夫そうです。でも、どうやってここに辿り着けばいいのかな。その点、ジェミ画伯は安全重視なのかズルなのか、屋根材に使用したバナナの葉とアレカヤシの葉を土台にちゃっかり敷いて、池のほとりに建てちゃってます。出入りには不自由なさそうですが、本文に忠実ではないように思われます。やはり、もともと池が水たまりっぽかったせいで、池の上に日よけ棚を組むスペースが取れなかったのかもしれません。これではオオオニバスも窮屈ですね。

月の光の描写が本文にあったので、どちらの画伯も夜の光景です。オオオニバスは「隐藏在现实与梦幻的交界处」(p.347)とあり、夢と現実との境界という幻想感の点から見ると、チャッピー画伯のほうがロマンチックに描けているように思えます。ただしジェミ画伯のほうもよくよく見れば、池に映った人影が……ひとり多い……! こ、こわいですね、これを夢と現実との境界ととらえていいかも。もしかしたら、先ほどの絵にいた中年夫婦の奥さんのほうだったりして……? ここでもやはり別の物語があふれ出てます。ジェミ画伯、恐るべし。

【お母さんの羅勒飯を再現しよう】

今回いろいろとおいしそうな料理がたくさん登場しました。想像するだにワクワクします。とくに食欲をかき立てられたのが罗勒饭と椰子鸡でした。前回、メンバーのナカさんにたくさんバジルをもらったとき罗勒饭を試しに作ってみればよかったなぁ(←そこまで予習が進んでいなかった)。

ためしに、「我母亲做的罗勒饭特别好吃,因为除了罗勒的嫩叶,她还会在饭里加些别的,像鹌鹑蛋、咸肉、腊肠、叉烧、芸豆」(p.349)、この文章を元に羅勒飯の作り方をチャッピー先生に尋ねてみたところ、なんと即座にレシピを作ってくれました。作り方も、具材を炒めてから混ぜる「混ぜご飯」タイプと、具材を入れて炊く「炊き込みご飯」タイプとがあり、どちらも具体的に教えてくれました。“これならできるかも”と思わせてくれます。

椰子鸡はココナツミルクで煮込んだ白茶っぽいタイ料理的なチキン料理を想像していました。ところが画像検索したら白じゃなかった、透明なココナツウォーターでぐつぐつやる鍋料理でした。ココナツ割って直接どぼとぼ鍋に注ぎ入れている動画を見ました。あっさりとした甘みと滋養が感じられるスープだそうです。想像するだけでお腹すいてきます。

ほかにもおいしそうな料理がたくさん出てきて、民宿のオーナーになったつもりで宿泊客にアピールする料理名を考えたかったのですが、そもそも料理に使う素材が固有名詞すぎて何の素材なのかよくわからなかったです。ただ、炸沙虫なる料理だけは日本人の感覚からすると危険信号点滅。脳珊瑚の二の舞になりそうなので、画像検索しかけて、深掘りはやめました。


1年、あっという間です。もう、次回は年内最後の読書会となってしまいました。Shenshenがおもむろに「忘年会って、ここやらないの?」と言い出しました。室生さんによると、「むかーしむかしはやってた」んですけど、その子さんによると「少なくともここ13~14年くらいはやってないわね」と。そうでしたか。中国語読書会はノリが淡白で、積極的な音頭取りがいないのウリ(?)ですが、まぁ今年は対面の読書会が復活し、会の名称も「中国小説を読む会」に変わったことだし、じゃあ、ちょっと楽しくやってみますかってことで、来月は読書会のあと忘年会やることにしました。中華の宴です、やったー。

新メンバー参加の歓迎会も兼ねています。Gさん、待ってます![祥]