【どんどん魔改造されていく阿梁の水塘边】
阿梁の水塘边がとんでもないことになっています。
最初はただの水塘だったはずなのに、こうなるともはや水塘边全体が一つの生き物となって、夜中に増殖・進化しているのではという気すらします。どんな情景なのか、物語性たっぷりのジェミ画伯に描いてもらいました。 ↓これこれ。
あれ、わたしの想像よりはおどろおどろしくない(前回登場していた中年夫婦もいないや)。そうか、本文に「童話世界」とあるからか。わりとかわいらしい世界観になっています。ちがうなー、これじゃないな。
阿梁がものした盆栽のなかにはこのような描写があります。「有一枝簕杜鹃的老枝上没有一片叶子,却轰然开出了一树粉色的杜鹃花,像一个头上插满鲜花的老人,散发着一种阴沉腐朽的烂漫」(p.351)、どんな感じでしょうね。
今度はチャッピー画伯に描いてもらいました。 ↓これこれ。
へー、わりとまともかも。この“ちょっと怖い感”漂う画風いいですね。 仏頭果の前科(?)あるチャッピー画伯なので(8/31の読書会参照)、老女の頭いっぱいに花を咲かせるかも……と期待していたので、ちょっと肩すかし。
さて、この一文でささやかな問題が発生しました。「簕杜鹃」(ブーゲンビリア)と「杜鹃花」(ツツジ)は違う花なのに、「簕杜鹃的老枝上」に「杜鹃花」を咲かせることなんてできるのか、という疑問です。おそらく接ぎ木・挿し木をしたんだろうって、その場では納得しました。
ところが、その後チャッピー先生に尋ねてみると「簕杜鹃と杜鹃花は植物学的には別」だと。ならば、なぜわざわざ「杜鹃花」と書いてあるのかと問うと、「(もしここで一貫して杜鹃花と書くと)植物説明的になりすぎる、色彩のイメージが限定される。(杜鹃花といい換えることで)読者にツツジ的な、もこもこした花の塊、樹全体がまるごと花に覆われる視覚を瞬時に喚起できます」とのこと。“えー、そうなの、ただ紛らわしいだけでは……”と思うのはわたしだけかな。「これは誤用ではなく、意図的な視覚操作で、この文では 同一の植物を別名・比喩で呼んでいる」って、チャッピー先生畳みかけてきます。強気です。
申しわけなくも、いまいちチャッピー先生が信用できなくて、ジェミ兄ちゃんにも聞いてみたところ、「(簕杜鹃と杜鹃花は)植物としては別物であり、接ぎ木もできません。文脈としては、『ブーゲンビリアの木に、その花(ブーゲンビリアの花)が咲いている様子』を、装飾的に描いていると捉えるのが自然です」って。装飾的ねぇ、自然ねぇ……。“まぁ、おふたりの意見が揃っているなら……そうなのね……”と、渋々受け入れたわたしです。もしかしたら、こういうところもブンガクなのかもしれない。
ちなみに、コピ先生(Copilot)はこの点について、「園芸的な演出(例えば、簕杜鹃の鉢に杜鹃花の枝を挿して咲かせたような寄せ植え)を表している可能性があります」と、あらたなびっくり解釈を披露してくれました。でも、こんなインチキは興ざめなので即時却下。コピ先生、聞いておいて、ごめんなさい。
【支払う側か受け取る側か】
「在你这里住一晚得多少钱?」(p.352)、ここの「得」をdéと読んで、仲間から「déではなく、děiですよ」と指摘されました。ここの「得」は「かかる」「必要とする」という意味の動詞で、「ここに一晩泊まるといくらかかるのか」という「支払う側の視点」になっているのだと気づきました。「これは料金の話=支払う側の質問」だからděiが正しい。わたしは、阿梁の立場つまり「受け取る側の視点」で読んでいたのでdé(得る) と読んでしまった。
ならばdéと読ませて、「一晩泊まるといくら得られるか」という文章にするにはどうしたらいいのか。「在你这里住一晚,能得到多少钱」とか「在你这里住一晚,能得多少钱?」といった文章に変えればいいのだと、チャッピー先生が教えてくれました。「得(děi)多少钱 : いくらかかる」「得到多少钱 : いくら得る」はお決まりの形ですもんね。
【芸術家のいた好几个月は何か月くらいか】
「有个艺术家就来过我们镇上,一住住了好几个月」(p.352)の「好几个月」は何か月くらいなのかが気になっていました。好几 は「多いけど、まだ“几”の感覚が残っている数」だから10か月は滞在しなかったわけで、一般的な感覚だと3〜6か月くらいかな。でも7〜8か月もあり得る。旅の途中でそんな悠長な道草してる人って、そうそういないですね。やっぱり芸術家は違うなぁ。
「一+動詞+動詞+了」の形は、行為が始まったら思いのほか長く続いたという語り口の強調だそう。「おっと、最初はそんなつもりじゃなかったのに」という含みがあるそうです。
チャッピー先生、たくさん例を挙げてくれました。
一住住了十年……住み始めたら、そのまま10年も住んだ。
一等等了半天……待ち始めたら、半日も待つことになった。
一看看了一整晚……見始めたら、一晩中見てしまった。
一听听了好几遍……聞き出したら、何度も聞いた。
一做做了三天……作業に取りかかったら、3日もかかった。
一修修了好几个小时……修理を始めたら、何時間もかかった。
一哭哭了半宿……泣き出したら、夜中ずっと泣いた。
一病病了半年……病気になったら、半年も治らなかった。
これは使い勝手よさそうな形です。
【敷地の雑草を有効活用できるか……】
「每个地方酿出的酒都有自己的灵魂,不同的水土养育出不同的酒香,清香型,浓香型,酱香型,只有甜烧村能酿出甜烧酒。酒可算是一个地方最古老最传统的文化了」(pp.353-354)。「我」は、甜烧村に伝わる古い方法で酒を造ろうとします。作り方はまず、
①米粉にさまざまな草の葉を混ぜ、そこに葛の汁を加えて発酵させる。
② それを鶏卵ほどの大きさに丸め、草むらの涼しい日陰にしばらく置いて「草曲」(麹)を作る。
③この「草曲」と糯米を使って、「米酒」を醸す。
なんか簡単そうに書いてあるので、「米酒」を真似して作ってみたくなります。
仕込んだ「米酒」を池の底に埋めて長期熟成(娘が生まれて嫁ぐ直前まで)したものが「女儿酒」で、時間以外の追加物なしの完成品。味は格別でこれで客をもてなすそうです。ならば晩婚の娘ほど客に喜ばれる酒になるってことかな。結婚をやたらせっつく現代中国の親なら、「女儿酒」の味が“よくなりすぎる”と、気が気じゃないかもしれないですね。
寝かせていないただの「米酒」は未完成品で、ここに果物・花・草・さらには鳥獣魚介までなんでもかんでも「酒壺に封じこめる」ことで完成した酒になるともあります。飼い猫の阿橘が誤って酒壺に落ちてしまい、「猫酒になりたいのか」と叱られてました。
浸け込む材料の組み合わせを大人の遊びに見立てて、観光客に体験させるっていかにも楽しそう。個人の民宿でこのような「酒造り」を気軽に体験できたら魅力倍増です。日本だと蔵元が利き酒をさせてくれたりするツアーをたまに見かけますが、個人だと法律上いろいろ制約があり、免許もなく「さぁやってみよう」とはいかないみたいです。
本文に出てくる「草曲」は、その土地の微生物環境そのものを取り込んだ麹なので市販の麹とは別物、たとえ同じ草を集めても同じ菌はつかないらしい。だから、よそでは再現できない「每个地方酿出的酒都有自己的灵魂」の味になるもののようです。真似したくても無理ならば、わが家の雑草でわが家にしかない「草曲」を作れないかなどとも想像してみましたが、そもそも日本では法律的に個人の酒造りは禁止なのでした。
読書会のあとは、ゴンさんの歓迎会も兼ねて忘年会しました。想像の「米酒」より目の前の啤酒です。読書会の生き字引 室生さん以外は初めての忘年会。ナカさんにはあれこれご面倒をおかけしました。中華のお店の予約から、料理の取り分け会計まで、何から何までありがとうございます。酔えば酔うほどに中国語がよどみなく口をついて出るShenshenに圧倒されました。無口辛口だとばかり思ってましたよ、すみません。東京駅豆知識など彼の导游話でおおいに盛り上がったのですが、いまとなっては「セザンヌはサイシャン」で、「ゴッホのファンは4声だよ、2声じゃないよ」しか覚えてない。り・こうしょう云々の話に至ってはアホがばれて困りました。帰宅して、セザンヌは塞尚Sài Shàngで、ゴッホは梵高Fàn Gāoなのかとちゃんと復習しました。ゴッホはともかく、セザンヌがサイシャンって、なんで? 共通する音がひとつもない、似てなさ過ぎてこれはこれで忘れないかも。そうだ、それにゴンさんの話をもっと聞きたかった、太極拳の話も聞きたかった、お勧めドラマの話も聞きたかった、時間があっという間すぎた。楽しかったー、おいしかったー。
そんなこんなで、来年も読書会は続きます。そろそろ次の作品も決めないと……、その子さんがひそかに「歴史っぽいもの」を意識して物色しているもよう。今回、この文学的で難しい〈落日珊瑚〉を最後まで読みきれたら、個人的には“次の作品、どんとこい”な気分になると思います。次回作はいっそSFでもどうですか?[祥]


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