2026年2月7日土曜日

1月24日の読書会

昨年はナカさんが加わって読書会に活気が生まれ、そして前回からゴンさんも加わって会にさらなる厚みが生まれました。視点が増えると新鮮な気づきも増え、今回はいつにも増して中身の詰まった読書会となり、時間が足りないくらいでした。

【催促に気づかなかった】

舅舅忽然抬起头看了我一眼,这一眼让我觉得脊背发凉」(p.355)。ここの「」のニュアンスをどう日本語に移していいか、うろうろ迷っていたら「なくても文章成立しますよね?」と仲間の助け船、そっか、なくてもいいのにあるってことは、これまでの経験則によれば「何かしら強調したがってる」ことが多いよなと思い至りました。その後、ジェミ兄に聞いてみたところ、ここの「」の役割は「非常に強烈であること、ダイレクトであること」を表わす以外に、「『』を使うことで、話し手の主観的な驚きや恐怖がより際立つ」と。「」が話し手の「主観」を強く反映していたとは。「我」の“ぞくっと感”は主観だけれど、読者にも同じ寒気を“ダイレクトに食らえ、共有しろっ”て催促していたんですね。

遅ればせながら、いま共有しました。叔父さんのこういうところ底が知れなくて気味悪いです。

【なんで「嫁」?】

読書会では特に問題にはならなかったのですが、じつは「嫁接」という単語にひそかに引っかかってました。“なんで「」?”と。なんというか、社会感丸出しの言葉が植物の世界でも使われているんだなぁと感じたわけです。まぁ、わかります、家父長制社会では女性が自分の実家を離れ、夫の「家」の基盤の上で生活するその姿は、よそからもってきた穂木が台木に入って血筋をつなぐ接ぎ木のメカニズムとよく似てますもんね。となれば、今後もしも社会構造がひっくり返って母系社会が支配的な世の中になったら、「嫁接」は死語になって「婿接」なんて言葉が生まれたりするのかな……。あぁそれでも本来、男性側であるはずの「婿」にも「女」偏がくっついています。感覚的には「男」偏でもよさそうなのに。この問題、奥が深そう……。

【ジェミ兄に戒められる】

双生苹果的果实是成对的」(p.357)の「」の読みについて、「jiéじゃなくてjiēですよ」って仲間に直してもらいました。そういえば「结巴」とか「结实」の「」って第一声だったっけ。

……あれ? 「」に二通りの読み方があるってことは、「结果」という単語も文脈によって「jié guǒ」と「jiē guǒ」とで読み分けるってこと? だって「果」が「結」するわけだから……。

「北辞郎」を見てみたら……あ、あった。「jiē guǒ」で「実を結ぶ、果実がなる」、「jié guǒ」で「結果」「結局、挙句の果て」って。おまけに「殺す、とどめを刺す」などという物騒な意味まで載ってます。

「実を結ぶ」ことを、日本語では「けつじつ(結実)」とはいっても「けっか(結果)」とはいいません。ネイティブに「努力が実を結んだよ」というつもりで「努力结实了」なんて中国語で自慢した日にゃ、「努力がっちり?」 「努力がムキムキ?」と逆に突っ込まれるってことか(危なかったー)。

ジェミ兄とチャッピー先生に尋ねたところ、「结 jiē」には、植物が実をつける以外に、実体あるものが「物理的」に変化して「固まる」「詰まる」、そんな共通したイメージがあるようです。確かに「结舌」「结疤」「结茧」、みんな詰まって固まってます。いっぽう「结 jié」には、 バラバラなものを約束やルールあるいは論理、つまりは「抽象的」なものでひとまとめにする、そんなイメージがあるのだと。「结婚」「结盟」「结合」とか、確かになんか繋がってますもんね。

だから、努力が「実を結ぶ」のは「努力有了jié)果」で、ばらばらだった果(ここでは努力)がまとまる感じ。これを「どうしても物理的に『努力の実』を実らせたい」なら(比喩ではあるけれど)「努力jiē」にしないと伝わらないと教わりました。「」の助けがないと「jiē」は「果:jié guǒ」に引っ張られて負けてしまうようです。「结果:jiē guǒ」は辞書には載っているものの、単体では使えないっぽい。

うーんこんがらがる……。この「こんがらがり」も「结 jiē」のイメージだよとジェミ兄に突っ込まれました……。だったらこの「こんがらがり」をほどく结实结果(「jiē guǒ」と「jié guǒ」)を入れ込んだ短いフレーズを作ってみてとお願いしたところ……

根基jiē)实,努力jiē,必有jié)果

土台が堅実であれば、努力は実を結び、必ず結果がついてくる。

Σ(゚д゚;) ひぃぃ教訓で返された……。しかも今度は「」のかわりに「」だ。

こんな重箱の隅突っつくようなことをちくちく考えるのやめて、堅実に努力します。


今回、その子さんの差し入れ、銀杏・干し柿が大ウケでした。

なんとどちらも自家製で、ことに銀杏はやり手の行商人(孫)に「売りつけられた」とその子さん苦笑い。でも、こんなかわいいパッケージで行商された日には、わたしも大量購入してしまうと思います。絵心あれば、絵手紙にしたいクオリティ。

銀杏はさっそくホットサンド用のフライパンで炒って、茶わん蒸しに入れました。甘くてほっくほくでした。本当はレンゲでしゃくってどんぶり一杯一気食いしたいくらい大好きな銀杏ですが、「(食べすぎは)毒だからね」と室生さんに釘を刺されました。それを聞いたゴンさん「毒があるの?」って驚いていました。はい、あるんです、調べたら適量は1度に 5〜10粒らしいです、たったの。どおりで銀杏の缶詰があんなに小さいわけです。あれは「これくらいにしとけ」というメッセージだったのか。銀杏の巨大缶、あればいいのにと思っていましたが、あのちっぽけサイズは消費者への安全配慮なのかもしれない。干し柿のほうもしみじみした深い甘さに癒しを感じました。じつにおいしかったです。干し芋のとき同様“身体にいいもの食べてる”感で満たされました。

その子さん、差し入れだけでなく今回は次に取り上げる作品のコピーも配布してくれました。作品は、马伯庸《长安的荔枝》。安定のその子セレクトなので、作品に外れがあるわけもなく、読む前からワクワクではちきれました。読書会終了直後からダッシュでがつがつ読みふけりました。やや長めの中編小説ですが、ストーリーにリズムがあって先へ先へと後半へ行くほどに加速度がつく作品です。主人公 李善德の名前を見て“どっかで見たなぁ”と思ったら、いま公開中の映画「長安のライチ」の原作でした。

内容は唐の都・長安で、下級官吏・李善徳が上司に無茶ぶりされた「ほぼほぼ絶望的なミッション」を、得意な「数学」を武器にクリアするお話。そのミッションというのが、(楊貴妃の誕生日に合わせて)嶺南から長安まで腐りやすいライチを新鮮なまま運んでこい、というもの。ナンデスカそれ、唐代のブラック官僚社会がコミカルに描かれていると思いました。史実を下敷きにしているので、杜甫や安禄山などあちこちで聞いたことのある名前が出てきます。唐代の官職、地名、歴史等々、知らないことだらけですが、その点はShenshenが詳しそうなので不安なしです。あわせて映画も観ておけばイメージしやすく、これでもう予習はすんだも同然!(?)。さすがその子さん、つかみはばっちり。心ははや次回作へ向かうわたしです。

いやいや〈落日珊瑚〉はこれからが佳境だった![祥]

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