2025年12月26日金曜日

12月21日の読書会

どうしようどうしよう、もう1年終わっちゃう。そんな焦りを押しとどめてくれるいつもの読書会。時間ギリギリに着いたと思ったら、すでに全員揃っていて、初参加のゴンさんが笑顔で迎えてくれました。しまった、面目ない。ゆるゆるよろしくお願いします。

【どんどん魔改造されていく阿梁の水塘边】
阿梁の水塘边がとんでもないことになっています。
最初はただの水塘だったはずなのに、こうなるともはや水塘边全体が一つの生き物となって、夜中に増殖・進化しているのではという気すらします。どんな情景なのか、物語性たっぷりのジェミ画伯に描いてもらいました。 ↓これこれ。

あれ、わたしの想像よりはおどろおどろしくない(前回登場していた中年夫婦もいないや)。そうか、本文に「童話世界」とあるからか。わりとかわいらしい世界観になっています。ちがうなー、これじゃないな。
阿梁がものした盆栽のなかにはこのような描写があります。「有一枝簕杜鹃的老枝上没有一片叶子,却轰然开出了一树粉色的杜鹃花,像一个头上插满鲜花的老人,散发着一种阴沉腐朽的烂漫」(p.351)、どんな感じでしょうね。
今度はチャッピー画伯に描いてもらいました。 ↓これこれ。

へー、わりとまともかも。この“ちょっと怖い感”漂う画風いいですね。 仏頭果の前科(?)あるチャッピー画伯なので(8/31の読書会参照)、老女の頭いっぱいに花を咲かせるかも……と期待していたので、ちょっと肩すかし。
さて、この一文でささやかな問題が発生しました。「簕杜鹃」(ブーゲンビリア)と「杜鹃花」(ツツジ)は違う花なのに、「簕杜鹃的老枝上」に「杜鹃花」を咲かせることなんてできるのか、という疑問です。おそらく接ぎ木・挿し木をしたんだろうって、その場では納得しました。
ところが、その後チャッピー先生に尋ねてみると「簕杜鹃杜鹃花は植物学的には別」だと。ならば、なぜわざわざ「杜鹃花」と書いてあるのかと問うと、「(もしここで一貫して杜鹃花と書くと)植物説明的になりすぎる、色彩のイメージが限定される。(杜鹃花といい換えることで)読者にツツジ的な、もこもこした花の塊、樹全体がまるごと花に覆われる視覚を瞬時に喚起できます」とのこと。“えー、そうなの、ただ紛らわしいだけでは……”と思うのはわたしだけかな。「これは誤用ではなく、意図的な視覚操作で、この文では 同一の植物を別名・比喩で呼んでいる」って、チャッピー先生畳みかけてきます。強気です。
申しわけなくも、いまいちチャッピー先生が信用できなくて、ジェミ兄ちゃんにも聞いてみたところ、「(簕杜鹃杜鹃花は)植物としては別物であり、接ぎ木もできません。文脈としては、『ブーゲンビリアの木に、その花(ブーゲンビリアの花)が咲いている様子』を、装飾的に描いていると捉えるのが自然です」って。装飾的ねぇ、自然ねぇ……。“まぁ、おふたりの意見が揃っているなら……そうなのね……”と、渋々受け入れたわたしです。もしかしたら、こういうところもブンガクなのかもしれない。
ちなみに、コピ先生(Copilot)はこの点について、「園芸的な演出(例えば、簕杜鹃の鉢に杜鹃花の枝を挿して咲かせたような寄せ植え)を表している可能性があります」と、あらたなびっくり解釈を披露してくれました。でも、こんなインチキは興ざめなので即時却下。コピ先生、聞いておいて、ごめんなさい。
【支払う側か受け取る側か】
在你这里住一晚多少钱?」(p.352)、ここの「」をと読んで、仲間から「ではなく、děiですよ」と指摘されました。ここの「」は「かかる」「必要とする」という意味の動詞で、「ここに一晩泊まるといくらかかるのか」という「支払う側の視点」になっているのだと気づきました。「これは料金の話=支払う側の質問」だからděiが正しい。わたしは、阿梁の立場つまり「受け取る側の視点」で読んでいたので(得る) と読んでしまった。
ならばと読ませて、「一晩泊まるといくら得られるか」という文章にするにはどうしたらいいのか。「在你这里住一晚,能得到多少钱」とか「在你这里住一晚,能得多少钱?」といった文章に変えればいいのだと、チャッピー先生が教えてくれました。「得(děi)多少钱 : いくらかかる」「得到多少钱 : いくら得る」はお決まりの形ですもんね。
【芸術家のいた好几个月は何か月くらいか】
有个艺术家就来过我们镇上,一住住了好几个月」(p.352)の「好几个月」は何か月くらいなのかが気になっていました。好几 は「多いけど、まだ“几”の感覚が残っている数」だから10か月は滞在しなかったわけで、一般的な感覚だと3〜6か月くらいかな。でも7〜8か月もあり得る。旅の途中でそんな悠長な道草してる人って、そうそういないですね。やっぱり芸術家は違うなぁ。 「+動詞+動詞+」の形は、行為が始まったら思いのほか長く続いたという語り口の強調だそう。「おっと、最初はそんなつもりじゃなかったのに」という含みがあるそうです。 
チャッピー先生、たくさん例を挙げてくれました。
住住十年……住み始めたら、そのまま10年も住んだ。 
等等半天……待ち始めたら、半日も待つことになった。 
看看一整晚……見始めたら、一晩中見てしまった。 
听听好几遍……聞き出したら、何度も聞いた。 
做做三天……作業に取りかかったら、3日もかかった。 
修修好几个小时……修理を始めたら、何時間もかかった。 
哭哭半宿……泣き出したら、夜中ずっと泣いた。 
病病半年……病気になったら、半年も治らなかった。 
これは使い勝手よさそうな形です。
【敷地の雑草を有効活用できるか……】
每个地方酿出的酒都有自己的灵魂,不同的水土养育出不同的酒香,清香型,浓香型,酱香型,只有甜烧村能酿出甜烧酒。酒可算是一个地方最古老最传统的文化了」(pp.353-354)。「我」は、甜烧村に伝わる古い方法で酒を造ろうとします。作り方はまず、
①米粉にさまざまな草の葉を混ぜ、そこに葛の汁を加えて発酵させる。
② それを鶏卵ほどの大きさに丸め、草むらの涼しい日陰にしばらく置いて「草曲」(麹)を作る。
③この「草曲」と糯米を使って、「米酒」を醸す。
なんか簡単そうに書いてあるので、「米酒」を真似して作ってみたくなります。
仕込んだ「米酒」を池の底に埋めて長期熟成(娘が生まれて嫁ぐ直前まで)したものが「女儿酒」で、時間以外の追加物なしの完成品。味は格別でこれで客をもてなすそうです。ならば晩婚の娘ほど客に喜ばれる酒になるってことかな。結婚をやたらせっつく現代中国の親なら、「女儿酒」の味が“よくなりすぎる”と、気が気じゃないかもしれないですね。
寝かせていないただの「米酒」は未完成品で、ここに果物・花・草・さらには鳥獣魚介までなんでもかんでも「酒壺に封じこめる」ことで完成した酒になるともあります。飼い猫の阿橘が誤って酒壺に落ちてしまい、「猫酒になりたいのか」と叱られてました。
浸け込む材料の組み合わせを大人の遊びに見立てて、観光客に体験させるっていかにも楽しそう。個人の民宿でこのような「酒造り」を気軽に体験できたら魅力倍増です。日本だと蔵元が利き酒をさせてくれたりするツアーをたまに見かけますが、個人だと法律上いろいろ制約があり、免許もなく「さぁやってみよう」とはいかないみたいです。
本文に出てくる「草曲」は、その土地の微生物環境そのものを取り込んだ麹なので市販の麹とは別物、たとえ同じ草を集めても同じ菌はつかないらしい。だから、よそでは再現できない「每个地方酿出的酒都有自己的灵魂」の味になるもののようです。真似したくても無理ならば、わが家の雑草でわが家にしかない「草曲」を作れないかなどとも想像してみましたが、そもそも日本では法律的に個人の酒造りは禁止なのでした。

読書会のあとは、ゴンさんの歓迎会も兼ねて忘年会しました。想像の「米酒」より目の前の啤酒です。読書会の生き字引 室生さん以外は初めての忘年会。ナカさんにはあれこれご面倒をおかけしました。中華のお店の予約から、料理の取り分け会計まで、何から何までありがとうございます。酔えば酔うほどに中国語がよどみなく口をついて出るShenshenに圧倒されました。無口辛口だとばかり思ってましたよ、すみません。東京駅豆知識など彼の导游話でおおいに盛り上がったのですが、いまとなっては「セザンヌはサイシャン」で、「ゴッホのファンは4声だよ、2声じゃないよ」しか覚えてない。り・こうしょう云々の話に至ってはアホがばれて困りました。帰宅して、セザンヌは塞尚Sài Shàngで、ゴッホは梵高Fàn Gāoなのかとちゃんと復習しました。ゴッホはともかく、セザンヌがサイシャンって、なんで? 共通する音がひとつもない、似てなさ過ぎてこれはこれで忘れないかも。そうだ、それにゴンさんの話をもっと聞きたかった、太極拳の話も聞きたかった、お勧めドラマの話も聞きたかった、時間があっという間すぎた。楽しかったー、おいしかったー。
そんなこんなで、来年も読書会は続きます。そろそろ次の作品も決めないと……、その子さんがひそかに「歴史っぽいもの」を意識して物色しているもよう。今回、この文学的で難しい〈落日珊瑚〉を最後まで読みきれたら、個人的には“次の作品、どんとこい”な気分になると思います。次回作はいっそSFでもどうですか?[祥]

2025年12月8日月曜日

11月30日の読書会


全員参加の賑やかな読書会、充実したおやつを前に至福の時を過ごしました。参加希望の方が1名いらっしゃる予定だったのですが、あいにくご家族がインフルエンザとのことで参加見合わせとなりました、残念。いま流行り始めてますもんね、無理は禁物。次回、お会いできるのを楽しみにしています。

【見た目かわいいけれど毒もある】

阿梁の「ガジュマルの家」、例の根っこテーブルを貫く宝剣状のガジュマルは、あっという間に屋根を突き抜け、太陽の光にあたるや、一気にこんもりした緑のキノコ状に変貌しさらに成長しています。なんと気根まで伸ばし、垂れた気根が地面に達して、再び大地に戻ってくるという無限ループを形成してしまいました。なんという生命力。

阿梁はその垂れさがった気根に拾ってきたお猿のぬいぐるみをぶら下げ、そのようすを「猴子捞月」(p.345)と名づけます。阿梁、楽しそうだなぁ。調べたところ、これは中国の有名な寓話にちなんでいました。猿たちが水辺で遊んでいると、水面に映った月を見つけ「月が落ちたー!」と大騒ぎ(かわいい)。水の中に手を入れて月を取ろうとするけれど、手が届かない。猿たちは木の枝に一匹また一匹と連なってぶら下がり、長い一本の鎖のようになって水面の月に手を伸ばします。案の定、あと少しのところで枝が折れ、猿たちはみんな水の中にどぶんと落ちてしまいましたとさ、というお話。「猴子捞月:猿が月をすくう」、もともとは『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』という仏教関連の書物が原典だそうで、つまり不可能なことを無理にやろうとして失敗することへの教訓がこめられていたわけです。お猿のぶら下がった光景はいかにもかわいらしいけれど、皮肉を含んだ光景だったのかー。

【どんどん腕を上げていく画伯たち】

今回も阿梁があらたに作った小屋が登場します。次々と本当によく考えつくものです。そこでまたチャッピー先生とジェミ兄ちゃんの絵をお願いしてみました。

まずは、池の周りに作った鳥かご状のつる性植物の「花の家」と、レンガ作りの「薬草小屋」。





ジェミ画伯↓

←チャッピー画伯


チャッピー画伯のほうは、ゴッホのような人物が不自然に密接して立ち並ぶふたつの構造物を眺め、物思いにふけっているようす。絵に雰囲気を感じますね。





←ジェミ画伯

ジェミ画伯のほうは、脱サラして田舎に移り住んだと思しき中年夫婦が描かれており、乙女チックな構造物とのギャップがいい味です。これはこれで別の物語があふれ出てます。池というより水たまりっぽいのがちょっと残念。


小屋の構造については、両者ともに似てるといえば、まぁ似てますね。どちらも、“うーん、これ……?”的な微妙な違和感込みで、いろいろと楽しめる仕上がりです。誰か映画化してくれないかなぁ。

自分が観光客だったら阿梁の作品(小屋)を実際に見てみたい、そう思う人はわたしだけではありません。ストーリーは展開して、阿梁の新作はなんとこのあと「ガジュマルの家」ともども大評判となり、当人の「仙人っぽさ」もあいまって彼は伝説の人物となっていきます。

その評判に気をよくした阿梁がさらに作ったのが、池の上の「日よけ棚」と「木の洞小屋」。その想像図がこちら。






←チャッピー画伯



←ジェミ画伯


「木の洞小屋」の2階だて構造の階段が、内側についているのか、外側についているのかで、ふたりの画伯の意見が分かれていますね。チャッピー先生のほうは、木の幹に階段らしきものを彫り込んでいます。ジェミ画伯はなんと木の内側! よほど太い木でないとこんな細工は難しいのでは。でも夢があります。どちらも“外側に縄梯子っぽいもの”という、わたしの安直な想像をはるかに超えています。

「日よけ棚」のほうは、「他又造出了两座神奇的屋子,一座建在水塘上,他在水塘里种上王莲,又在王莲巨大的叶子上用香蕉叶和散尾葵搭起一座凉棚,周围点缀着大大小小的睡莲」(p.346)、池にオオオニバスを植え、その巨大な葉っぱの上に日よけ棚を組んだと本文にはあります。そんなこと本当にできるのかと思いましたが、チャッピー画伯はちゃんと葉っぱの上に建ってます。こんな大きな葉なら人が乗っても大丈夫そうです。でも、どうやってここに辿り着けばいいのかな。その点、ジェミ画伯は安全重視なのかズルなのか、屋根材に使用したバナナの葉とアレカヤシの葉を土台にちゃっかり敷いて、池のほとりに建てちゃってます。出入りには不自由なさそうですが、本文に忠実ではないように思われます。やはり、もともと池が水たまりっぽかったせいで、池の上に日よけ棚を組むスペースが取れなかったのかもしれません。これではオオオニバスも窮屈ですね。

月の光の描写が本文にあったので、どちらの画伯も夜の光景です。オオオニバスは「隐藏在现实与梦幻的交界处」(p.347)とあり、夢と現実との境界という幻想感の点から見ると、チャッピー画伯のほうがロマンチックに描けているように思えます。ただしジェミ画伯のほうもよくよく見れば、池に映った人影が……ひとり多い……! こ、こわいですね、これを夢と現実との境界ととらえていいかも。もしかしたら、先ほどの絵にいた中年夫婦の奥さんのほうだったりして……? ここでもやはり別の物語があふれ出てます。ジェミ画伯、恐るべし。

【お母さんの羅勒飯を再現しよう】

今回いろいろとおいしそうな料理がたくさん登場しました。想像するだにワクワクします。とくに食欲をかき立てられたのが罗勒饭と椰子鸡でした。前回、メンバーのナカさんにたくさんバジルをもらったとき罗勒饭を試しに作ってみればよかったなぁ(←そこまで予習が進んでいなかった)。

ためしに、「我母亲做的罗勒饭特别好吃,因为除了罗勒的嫩叶,她还会在饭里加些别的,像鹌鹑蛋、咸肉、腊肠、叉烧、芸豆」(p.349)、この文章を元に羅勒飯の作り方をチャッピー先生に尋ねてみたところ、なんと即座にレシピを作ってくれました。作り方も、具材を炒めてから混ぜる「混ぜご飯」タイプと、具材を入れて炊く「炊き込みご飯」タイプとがあり、どちらも具体的に教えてくれました。“これならできるかも”と思わせてくれます。

椰子鸡はココナツミルクで煮込んだ白茶っぽいタイ料理的なチキン料理を想像していました。ところが画像検索したら白じゃなかった、透明なココナツウォーターでぐつぐつやる鍋料理でした。ココナツ割って直接どぼとぼ鍋に注ぎ入れている動画を見ました。あっさりとした甘みと滋養が感じられるスープだそうです。想像するだけでお腹すいてきます。

ほかにもおいしそうな料理がたくさん出てきて、民宿のオーナーになったつもりで宿泊客にアピールする料理名を考えたかったのですが、そもそも料理に使う素材が固有名詞すぎて何の素材なのかよくわからなかったです。ただ、炸沙虫なる料理だけは日本人の感覚からすると危険信号点滅。脳珊瑚の二の舞になりそうなので、画像検索しかけて、深掘りはやめました。


1年、あっという間です。もう、次回は年内最後の読書会となってしまいました。Shenshenがおもむろに「忘年会って、ここやらないの?」と言い出しました。室生さんによると、「むかーしむかしはやってた」んですけど、その子さんによると「少なくともここ13~14年くらいはやってないわね」と。そうでしたか。中国語読書会はノリが淡白で、積極的な音頭取りがいないのウリ(?)ですが、まぁ今年は対面の読書会が復活し、会の名称も「中国小説を読む会」に変わったことだし、じゃあ、ちょっと楽しくやってみますかってことで、来月は読書会のあと忘年会やることにしました。中華の宴です、やったー。

新メンバー参加の歓迎会も兼ねています。Gさん、待ってます![祥]