まだまだ暑いですが、確実に秋です。その証拠に店頭に並ぶお菓子の新商品のテイストはすでに和栗やら安納芋やらの秋アピール。その一方で、レモン味やらゆず味、マンゴー味には夏の終わりのわびしさが漂っていて名残惜しい。目移りして、お菓子選びに時間を一瞬忘れました。すみません、遅れたのはそのせいです。お菓子は読書会の命綱(違うって)。
【阿梁の家の中って、どんな感じ?】
前回、ジェミ兄ちゃんとチャッピー先生に絵を描いてもらいました。とくにチャッピー先生の仏頭果のイラストは破壊力抜群でした。あのときの衝撃はいまも生々しく脳裏に焼き付いています。一方のジェミ兄には阿梁の家の外観をイラスト化してもらいました。こちらも、かなり予想外の仕上がりでした。前回の試みで両者の画力が拮抗していることが判明しました。なんというか、どちらもわたしの予想を超えて、“チガウ、コレジャナイ”感をついてくるので、逆に癖になりそうです。
そこで今度はテキストのpp.338–339の室内描写をもとに、お二方に阿梁の家の内側をイラストで説明してもらいました。
最初にジェミ兄↓
前回も感じたのですが、ジェミ兄の画風はちょっと童話チックです。壁一面の花が満開で、鼻がむずむずしそうな気がします。凳子は足つきの手の込んだ作りです。6脚もあるけれど、阿梁のところにこんなたくさんのお客が来るんだろうか。しかも天井、すでに穴が開いてるし、気が早いです。こんなでっかい穴だったら、ガジュマルも気兼ねなくどんどん成長できるというものです。仲間のナカさんだったか、ここの部分を読んでいて「雨が降ったら、この家どうなるんでしょうね」っていってたような……、この穴見たら、もうどうにでもなれと思うかも。
次にチャッピー先生↓
……先生、絵画教室に通ったんでしょうか。なんか、画風が一変してます。素人のツッコミを許さない覚悟を感じます。
2枚のイラストを観賞して気づいたこと。
「盘着一张茶几,野趣横生,是用老荔枝树的树根做成的」(p.338)、「盘着」とあるので、わたしはてっきり“ライチの木の根っこをぐるぐる巻いて根っこテーブルの形に成形したもの”を思い描いていました。でも、ジェミ兄もチャッピー先生も、地面から盛り上がった根がテーブル状になっている様子を描いています。チャッピー先生によると、古いライチの根っこが、その場で地面に張り出して、根の「真ん中あたり」は土が見えている。そこからガジュマルが芽を出した。つまり ライチの根はガジュマルの周囲を囲んでいて、中央は空いていた(空洞というよりスペースがあった) 。そこへガジュマルが下から芽を出したので、阿梁が真ん中に穴をあけて通した、と説明を加えてくれました。なるほどー。根っこテーブルは最初っから動かせない仕様なのか。
もしかして阿梁の樹の家は、テーブル作りから始まったのかも。ライチの老木を見て、“これで根っこテーブル作ろ”、“切った幹で腰掛け作ろ”、そこから周りを囲って小屋にしちゃえ、二軒繋がって楽しいなー、などという流れでできたのかなぁ。これだと“テーブルの位置をちょっと窓際にずらしたい”と思っても、お部屋のレイアウト変更は無理ですね、ガジュマルも外壁も成長中だし。最終形態はどんなだろう、すごいです……。
【見てみたいけど、使うのはちょっと……】
「他沏好茶,倒了一杯递给我,我接过一看,发现这茶杯很特别,非常轻,但又不像塑料的,再仔细一看,里面居然还封存着一只虫子,琥珀一般,便问阿梁这是什么材质的杯子。」(p.339)。DIY好きな阿梁はなんでも自作します。家から家具から食器まで。出されたお茶の茶杯も彼のお手製だと知り、幼馴染の「我」はびっくり。阿梁は「努力掩饰着得意,微微笑着说」しながら、作り方を語りだします。彼のオタクっぷりがこのあたりからすでにうかがえます。わたしが映画監督だったら「あ、そこは相手の目を見ないで、ちょっと早口で……」なんて阿梁役に注文つけると思います。キャストは〈鬓边不是海棠红〉で商細蕊を演じた尹正でどうでしょう。雰囲気あるオタク役にぴったりかと。本物の虫入り琥珀は貴重なものらしいです。この阿梁お手製の「虫入り湯のみ」、作る過程を見てみたいですし、本当にありそうな気もします。ただ、……使うのはちょっと勇気いるかな。
【語りたい阿梁、萎える学習者】
尹正が……もとい、阿梁が「我」を外に連れ出して、池の周りの「仲間」をつぎつぎ紹介して回ります。その中で彼がいったこの言葉が印象的でした。
「如果你把它的叶子摘光,它就会失明,就看不到光了,你猜植物失明了会怎样?人一旦失明了,听觉就会变得灵敏,而植物失明了会拼命生长,个头会比周围的兄弟姐妹高出一截,我猜测,这可能是植物天真的一种想象,它们根据自己当种子时候的童年记忆,认为只要拼命生长,就能钻出土壤看到阳光。」(pp.340-341)。
“ただがんばって成長しさえすれば、土を突き破って太陽の光を見ることができると(植物たちは)思っているんじゃないか”。よく見知った「只要~就」の構文からこんなかっこいい表現が生まれるとは。阿梁が植物に注ぐ愛しさも伝わってきます。
阿梁のオタク度は、怪しげな食虫植物ゾーンに至ると急上昇、語り口も興奮気味になり、たくさんの植物名が出てきます。それを聞く幼馴染の「我」は気圧されていきます。
そしてそれを読む学習者は、萎えていきます。阿梁が熱く語るたくさんの植物名に負けました。今回も植物名が調べきれなかったです。調べて学名がばっちり出てくれば日本語でなんというのか辿れそうですが、それがなかなかうまくいかない。7月読書会の脳珊瑚のトラウマがあるので、もう調べるのが途中で嫌になってしまいました。幸い、その子さんとShenshenが植物名をばっちり調べ上げてきています。だから読書会はありがたい。ただそれでも、膏香木(p.340)ははっきり特定できず、食鸟树(p.341)にいたっては作者の創作説まで浮上。鳥を捕まえて食べる樹、ありそうでなさそう、なさそうでありそう。いつか、またこの単語にお目にかかるかもしれないのでここに記録しときます。
【なんでも作ってしまう阿梁なのに】
阿梁んちのお茶がまずいことに気づいてしまった「我」。敏感に察して、古い茶を地面(おそらく室内)に捨て、新しい茶葉をわざわざ探し出して淹れなおす阿梁。「我」は「いいお茶だ」とはいってみたものの、そりゃ気まずい空気が漂います。どういう空気かというと……。
「说完两个人竟同时沉默下来,满屋的花香更浓烈更拥挤了,竟似站了满满一屋子的花妖看着我们。」(p.342)。
ここの「竟」の役割がよくわからず、“別になくてもいいじゃん”と思っていましたが、室生さんが「引き締まる感じがする」といいます。よく読めば、ここでも擬人化が見られます。花の「香り」が「花妖」になって、ぎっしり立ってこちらを見つめている……。ぎっしりですよ、満員電車なみの……、想像したら息苦しくなって、あぁこの気持ちがもしかして「竟」の「思いがけず」で「意外にも」の気分……かもしれないと思ったりしました。「我」の視点は擬人化満載。けっこう阿梁と似た部分あるのかも。
その子さんが不意に「中国の人って、ふだん植物をお茶にしたりはしないんでしょうか?」と。……Σ(・Д・) ! そもそも中国は漢方の国、ましてや阿梁はp.340で“植物たちは、自分の持ってるものならなんでも人にくれる”というくらいの、筋金入りナチュラリストです。その子発言にハッとさせられました。後ろから膝カックンされた気分です。タバコもお茶も手作りすればいいのに。阿梁の敷地にはドクダミなんて生えてないんだろうか、わが家の周りにはうんざりするほどはびこっています。レアな植物でタバコ作ってみたらいいんじゃないか、阿梁に伝えたいです。
小休止での話題が妙に盛り上がって、今回は時間ギリギリまで使った読書会でした。最後、駆け足になってしまった室生さん、ごめんなさい。
隣の集会室ではカラオケ教室でもやっているのか、歌声が響いてきます。Shenshenいわく「歌のうまい人は中国語もうまい」のだそう。内弁慶で自意識過剰のわたしはカラオケ嫌い苦手だし、中国語会話がどうにもこっ恥ずかしい。それを克服するには漢語角のような中国語で交流する場に出て、知らない人とがんがん話して度胸をつけるのがいいのだとアドバイス頂戴しました。猛者のいうことはこれだから……、小心者の気持ちがわからないんだよー。
みなさん中国語で話すときって、中国語で考えてるの? 中国語で考えようとすると、頭カラッポにならないですか? 考える道具がないというか、話すネタが見えないというか……。で、日本語で考えると今度はいい方が分からない。で、ジェスチャー能力だけが虚しく上がってしまう。中国語会話のジレンマ……。[祥]


0 件のコメント:
コメントを投稿