2024年8月26日月曜日

8月25日の読書会

8月2回めの読書会です。真夏と真冬はオンラインのありがたみをかみしめます。とくに8月、コロナ以前は読書会も夏休みにしてました。汗だくで公民館に足を運ぶのしんどいですからね。

【「ごちそうさま」の挨拶じゃないらしい】

「他放下瓷碗,双手合十,循环摆动,做出后浪推前浪的手势」(p.90)。陶工は「我」の問いかけに、こんな不思議なジェスチャーをはじめます。拙いわたしの読解力では、陶工は「ごちそうさまの挨拶をしてから、ぐるぐると、しかも左右に横揺れしながら平泳ぎの真似をする」……礼儀正しいヘンな人の絵面が浮かんでしまいます。この絵面は絶対違うだろと思いつつも、実際どんな動作なのか見当がつきません。太極拳っぽい動きをしているのではないかという意見が出ています。あぁ、それかも。本場の人たちに確認して、わかったら後日また報告しますね。

【どこかで使ってみたい「说就这么说吧」】

上記の謎ジェスチャーのあと陶工は、中国版「むかしむかしあるところに」方式の「高祖的高祖~」云々の相手をくらくらさせる呪文を唱えます。それに対し「我」は「那得好几十代了,不是干到古代去了吗?」(p.90)と返します。うまうまと陶工の術にはまったわけです。「不是~吗」がさらりと潜んでいるので、ここは反語で「干到古代去了」を強調しているのはわかるのですが、ここの「」の使い方がよくわからないです。それに続く「他没理我,就这么吧」(p.90)の「」が、誰の「」なのかでも混乱しました。「我」のいった「」なら、陶工の言葉は「おまえがそういうなら、そうだろうよ」だし、陶工の「」なら「おれがそういうんだから、そうなの」といった感じでしょうか。陶工は「我」にお構いなしとあるので、仲間と協議して、ここの「」は陶工のものと捉えていいんじゃないか、ということで落ち着きました。まぁ、どっちにしろ、“んなこた、どーでもいい”といった雰囲気はうかがえるので、あるいは「誰」にこだわらず、日本の言葉に直すならたんに「とにかくそういうことなの」でいいのかも。日常会話で使ってみたいです。

【教養がなさ過ぎて追いつかない】 

陶工が朗々と吟じる「“春花秋月何时了,往事知多少” “问君能有几多愁,恰似一江春水向东流”」(p.90)。この詞は李煜(り いく)という南唐の天子の「虞美人」という詞の一部です。南唐は975年に宋に滅ぼされ、国主の李煜は捕らわれて汴京(べんけい、北宋の首都、現在の河南省開封市)に送られ、3年後にその地で亡くなったそうです(松枝茂夫 編『中国名詩選』下 岩波文庫 1993年)。確かに宋徽宗の身の上と似ています。

陶工が李煜のこの詞を選んだわけが、あとになってじわっと染み入りました。

《虞美人》

春花秋月何时了 往事知多少 小楼昨夜又东风 故国不堪回首 月明中

雕栏玉砌依然在 只是朱颜改 问君都有几多愁 恰似一江春水 向东流


春の花、秋の月、それらは昔も今も変わることなく、尽きることを知らずめぐりきて季節をいろどる。それにひきかえ変わりはてたこの身、花を見るにつけ、月を見るにつけ、過ぎし日の思い出のみは数限りない。このわびしき高殿に、昨夜またしてもそよぎくる春風。はるかなる故郷、眺めやりてものおもう悲しみにどうして堪えられよう、さえわたる月明りの下に。

彫(えり)せし欄干(おばしま)、玉(たま)の砌(みぎり)、豪奢な宮殿は今もそのままに在るだろうに、ただこの身だけは、若き日の輝やか しい容姿はどこへやら、みじめに変りはててしまった。わが胸に満ちる悲しみはいったいどれほどといえばよかろうか。長江に満ち溢れる春の水が、東を指して流れてゆくさまをそのままに、こんこんと流れて尽きるときを知らないのだ。(村上哲見 注『李煜』中国詩人選集16 岩波書店 1959年


訳文がわたしの好みだったので、村上哲見 注『李煜』から引用しました。

これって、宋徽宗の心情そのまんまじゃないですか。陶工、あなた何者ですか。

松枝版と見比べると詞に字句の違いが2か所ありました。アンダーラインの「依然」の部分が松枝版では「应犹」、「都有」の部分が「能有」で、「应犹」「能有」のほうがポピュラーなのかもしれません。かの邓丽君さんも〈几多愁〉というこの詞そのまんまを歌詞にした曲の中で何度も「问君能有几多愁 恰似一江春水向东流」と歌い上げてました。なお、村上哲見版は呂遠刊本をもとにしているとありました。字句のニュアンスの違いを見分けるセンス、わたしにないのが残念。意味というより、音のフィーリングなのかな。

そういえば、ドラマ「慶余年」の第27話でも、主人公の范閑が酒をあおりながら詩や詞を次々そらんじていくシーンがありました。あれは超かっこいい、鳥肌立ちました。見返したら、そのなかにもこの「虞美人」が入ってました。名作なんですね。

この詞のみならず、陶工と「我」の会話の場面は、中国の歴史・文化・文学がてんこ盛りで、予習しきれませんでした。教養があまりになさ過ぎて情けない。

【女真人と満人】 

陶工が「我」に「おまえは女真人なのか」と敵意を見せる場面があります。「我」が「満人だ」と返答すると「祖上是,就是」(p.92)と陶工はいいます。ここがよくわからなくて仲間に聞くと、ようするに女真人はいろいろな長い長い紆余曲折を経て満洲人に改名したと。で、その時に国名も清にしたのだと、読書会のあと教えてくれました。なんと国の名前まで変えちゃったのかって話です。満洲族は女真族の末裔だということに陶工はこだわっていたんですね。陶工、やっぱりあなた何者ですか。


9月の読書会、全員参加でいきたいものです。[祥]

2024年8月3日土曜日

8月3日の読書会

先週今週と、2週続けての読書会、夏だけに打ち上げ花火みたいに威勢よく読み進んでます。そういえば今日は花火大会。

今回は全員そろったので、お喋りタイムもそこそこにさくっと本文に入りました。


【風景描写がいまいち目に浮かばない】

夕焼けの描写に「对天空的热吻」(p.85)とか「黑夜最觊觎的吻」(p.85)といったドラマチックな表現が出てくるとすごく文学的な匂いがして、“かっちょいい、おとなっぽい……”としびれてしまうのですが、さぁそれを日本語にして捉え直してみようとなると、もうお手上げ。作者のイメージの飛躍についていけず地上でぴょんぴょんしています。


【「黑黢黢」と「黑魆魆」】

黑黢黢的船」(p.85)の「黑黢黢」、「黑魆魆的望不到边际的山」(p.89)の「黑魆魆」、辞書には「黑黢黢」は「真っ暗・真っ黒」、「黑魆魆」は「(部屋や空が)暗い」とあります。qū qūとxū xū で「黑」のイメージがどう変わってくるんでしょう。ほかにも辞書には「黑漆漆」「黑乎乎」「黑晶晶」「黑洞洞」「黑森森」「黑黝黝」「黑油油」なんていろいろあって、重ね型選手権 色部門で黒は断トツ1位です(そんな選手権はない)。「黑○○」どうしで置き換えられるものもあれば、できないものもありそうです。それを理解できる中国語の使い手に……、そういうものにわたしはなりたい(賢治か)。


【いよいよ幻想世界へ】

「先是片状云像羽毛似的撩拨月亮,也顺带给它们点染了春心,令片状云红了脸庞」(p.86)。ここの「它们」って片状云のこと? と疑問が出ました。片状云が月亮を撩拨したら、月亮の春心が片状云にも点染して、片状云の脸庞が赤くなったと……(日本語がざんねんすぎる)。先ほどの「热吻」といい、擬人化がとんがりすぎていて、とっても難しいです。難しいなりに、片状云<块状云<乌云の順で山の天気が急変していく様子がドラマチックに表現されているなぁとしびれました。


【着ちゃダメだって、食べちゃダメだって】

目覚めれば、そこはもう読者の期待通り「境目の世界」。あっちに行くのか、こっちに行くのかの境目です。そんなこととはつゆ知らず、主人公の「我」は助けてもらった(?)謎の陶工に着替えを渡されます。さぁ、そのズボン「裤子是散腿的」(p.88)の部分で、疑問が出ました。愛知大学『中日大辞典』の「散腿裤」sǎn tuǐ kùを見ると「开档裤」kāi dāng kùに飛べとあり、飛んでみれば、ようは子どもの履く股割れズボンとあります。おとながそんなズボン履くのは変でしょ、でもこの作者の事だから何か意味があるのかな、と勘繰りだすわけです。た、楽しい……。とはいえ、理性的な仲間の一人が、ここはたんに裾の広がったズボンということでいいんじゃないの、「散」もsǎnではなく、ここはsànでいいんじゃないの、と正道に引き戻してくれました、ちぇっ。まぁ、そうですね。百度先生の画像検索でも、おしゃれなLoose-leg pants(←Google翻訳)がたくさん出てきました。それにしても、この着替えの服が「穿上很合体,像是专为我预备的」(p.88)だというのです、ぞくぞくします。

陶工は新しいお碗で「我」に食べ物を振舞います。このお碗がまた意味深だし、その食べ物もあやしげです。C・S・ルイス『ライオンと魔女』で、魔女がエドモンドに与えた食べ物と同じくらい危険な魅力。わたしも口にしてみたい。童心に帰って、“あー、着ちゃった、あー、食べちゃった……”と、お約束の展開にすっかり引き込まれてしまいました。


8月読書会は人が集まれば、2回やります。[祥]