2025年9月3日水曜日

8月31日の読書会

8月最終日の読書会。小学生のわたしだったら、夏休みの自由研究が終わらず、読書会を休んでいたところです。おとなでよかった。

この作品、 1文がやたら長い(長すぎる)。1ページ弱くらいの感覚で、みんなの前で音読すると、句点「。」がなくて自分の想定していた範囲をオーバーしてしまいます。おかげで仲間からは“やる気満々じゃん”といい方向に誤解されて困る事例多発中。

【長いけど、長い理由がある】 

我想起小时候在木瓜镇见过的那些外地人,那些排着长队等通行证的人们,打地铺睡在马路上的人们,准备去海南岛第一桶金的人们,路过木瓜镇准备去海南岛囤房的人们,前来过冬的人们,向往热带阳光的人们到如今这些开着房车来旅游的外地人,我像见证了一部发生在木瓜镇上的小型的沧海桑田史。早在九十年代,木瓜镇的居民就开始赚外地人的钱,如今,在大海边开民宿,其实还是在赚这些外地人的钱。」(p.334)。はい、長いですね。何がいいたいかというと、ここの「到如今」とそのあとの「如今」の「」のあるなしのニュアンスの違いを嗅ぎつけた、室生さんの嗅覚のするどさについてです。「がなくてもわかるのに、わざわざ使い分けているのねぇ」と。ほんとだー、時の流れを振り返る部分は「到如今」、外地人で商売している現状を述べる部分では、さくっと「如今」と使い分けて強調の濃淡をつけているように感じます。「」がつくと、「いまに至るまで」つまり過去から現在までの木瓜镇の変遷といった時間の幅を強く感じます。だから「沧海桑田史」が引き立つ気がしました。室生さんにいわれなきゃ、ただ“長いなぁ”と無自覚で読み流してたところです。

【ジェミ兄ちゃんとチャッピー先生】 

不仅把自然家化,还把植物诗歌化」(p.334)。ここもブンガクすぎていまいちピンときませんでした。「書いてある通りじゃないですか」とShenshenがいつものように身もふたもないことをさらりと表明するんですが、それじゃあムズムズが収まらない。「自然を家化して、植物を詩歌化する」って何です? 

で、ジェミ兄ちゃん(Gemini)に質問してみたところ、「自分の仕事を通じて、自然を人々が安らげる空間に変え、さらにその中に存在する植物を、人々の心を豊かにする芸術作品にまで高めていると感じている」のだと教えてくれました。なるほど、ジェミ兄うまいこというじゃん。チャッピー先生(ChatGPT)は「この仕事はただの商売じゃなく、自然を生活に溶け込ませて、植物を芸術作品のように表現する仕事だ」とかみ砕いてくれました。こういう解釈を機械に頼る自身の不甲斐なさ・後ろめたさは、とりあえず横に置いとこう。

【結局、村の名前どうなったん?】 

到后来,水井村几乎家家户户都开起了民宿,以至于村主任打算改一下村名,把水井村堂而皇之地改成珊瑚村」(p.335)。この文章から、結局村の名前は変わったのか、変わらなかったのかで判断が分かれました。わたしは単純に「打算」があるから村主任はそう思っただけで、変えていないと思っていました。その一方で、わざわざ「」や、「堂而皇之」を使うくらいだから、村の名前を変えたんだよという意見にもなるほどなと思いました。ようは「打算」がどこまでかかっているか。

チャッピー先生に判定してもらいました。先生によると「この文章からは村名が変わったのかどうかを断定することはできません」とのことでした。

ここ最近、わたしは調べものやわからないことに出会うとすぐチャッピー先生やジェミ兄に頼るようになってしまった。これって、なんかよくない気が薄々します。自分の頭で考えることを簡単に放棄してしまう。もともと突き詰めて考えるのが苦手なのに拍車がかかってしまった。これまで解決できない疑問は「まぁまぁまぁ……」とそのまま流してしまうことがあまりに多かったので、チャッピー先生やジェミ兄が自信たっぷりに疑問を解決してくれると本当にスカッとする。答えがあることに安心満足してしまう。右といわれりゃ右だと思うし、左といわれりゃ左もありだよなと思う。この優柔不断さは、チャッピー先生の嘘っぱちの答えにも納得してしまう危うさに繋がります。気をつけないと……。

【釈迦の林の仏頭……って?】 

有时候躺在释迦林里的青苔上,头顶挂着大大小小的青色佛头,竟有几分寺庙里才有的端凝与慈悲。」(p.336)。释迦の林がなんの林なのか調べるのにだいぶ手間取りました。文字面だけ見るとなんかぎょっとしますが、バンレイシ(仏頭果)という果実のなる木でした。室生さんは実際にバンレイシを食べたことがあるそうです。どんな味なのか、わたしも食べてみたい。画像検索すると……おぉ確かに仏頭! この仏様のパンチパーマ、なんていうんだっけ、という話になりました。かえって確認しました。螺髪(らほつ)でした。

头顶挂着大大小小的青色佛头」がどんな光景なのか、“絵に描いたらどうなるんだろうね”という意見が上がったので、チャッピー先生に絵をかいて説明していただきました。

それがこれ、どん

それがこれ、どん↓

チガーウ、コレジャナーイ! 怖すぎる……。作者に悪いことした。でも、「絵を描いてみましょうか?」って最初にいったのは、チャッピー先生のほうだから。

【晴れがましすぎる】 

我觉得木瓜镇的人应该给你戴朵大红花」(p.336)。これもどんな様子なのか気になります。「大红花」は赤いリボンを大量に使用した大きな造花でした。小红书で検索すると、この「大红花」のついた赤いリボンを肩から斜め掛けした新郎・軍人・教師などなどいっぱい出てきました。かなり晴れがましいというかおめでたい雰囲気です。功績や栄誉をたたえるという象徴的な表現なんですね。「大红花」をつけている本人よりも、見ている周りがそれを楽しんでいるあたりにユーモアを感じます。そういえば、新婚さんの車にも大红花をつけたりしますね。

【ぎりぎりアウトも差点儿】 

走私车像蝗虫一样席卷了整个小镇,家家户户在走私汽车,走私车侵占了所有的角落,包括菠萝地,包括戏台,最后实在没地方放了,以至于汽车差点上了房顶。」(p.337)。車は結局、屋根の上にまで乗っけたのかどうかで意見が分かれました。「差点」は「実際には起こらなかったこと」を表すのが基本ですが、「実際に起きたこと」を含む場合もあるのだそうです。会話などで“ぎりぎりアウト感”を強く伝えたいときに使い、起きたか・起きなかったのかの判断は話の流れで判断するらしいです。ただこの文章については、実際に屋根の上に車を乗せたのではなく、それくらい車があふれかえった、という誇張表現と理解するのが自然みたい。

【ジェミ兄の絵心について……】 

こりずに“絵に描いたらどうなるんだろうね”の第2弾。

他那两间棚屋都是用山林间砍下的树木和竹子搭建起来的,又因为这里的红土地过于肥沃,阳光又很凶猛,种棵茄子都能长成茄子树,就是把一根扁担插进土里都能立刻发芽,所以,他用来搭棚屋的那些树木,插进土里之后又复活了,纷纷抽出枝条长出新叶,这些郁郁葱葱的枝叶全都交缠拥抱在了一起,使得整间棚屋都变成了绿色的,猛一看,两间棚屋不像是搭建起来的,倒像是直接从地里长出来的,两棵房屋形状的巨大植物,活的,而且还在继续生长。」(p.338)。これで1文、長くて息切れしそうです。この光景をがんばってイメージしてみました。二つの独立した小屋が成長して繋がっているって、とても不思議ですよね。

そこで、今度はジェミ兄に絵をかいて説明してとお願いしてみました。わたしのイメージと比べてどうなのか気になります。

それがこれ

うーん、うーん、作者の孙频さん、ごめんなさい。ジェミ兄にも悪いことした。チガーウ、コレジャナーイ感がハンパない。


それにしても舅舅の標準語、怖すぎる。そして、いよいよあやしいマングローブ林に灯台が出てきました。9月もまだ暑い日々が続くらしいですが、もうすっかり寒気でぞくぞくですよ。次回も月末開催ですから、多少は過ごしやすくなっていることを期待します。[祥]